平坦で、困難な道へ
緊張と、弛緩。熱意と、冷静。爽やかな笑顔と、引き締まった口元──。YAMAHA FACTORY RACING TEAMのピットには、さまざまな空気が流れていた。
プロフェッショナルたちの現場である。チームスタッフの動きに無駄はなく、すべてが迅速に準備され、片付けられ、遅延というものが一切感じられない。
しかし、ただ張り詰めているだけではない。ふわりと緊張が解ける瞬間が、必ずある。それは、意図的に、あえて作られているわけではない。3人のレーシングライダー、中須賀克行、ポル・エスパルガロ、アレックス・ローズへの絶対的な信頼感が、チーム全体にごく自然な落ち着きをもたらしていた。
「僕たちは去年勝つことができた。でも、他のチームに対して勝っていたとは思っていない。去年の勝者ではあるけど、僕たちは今年もチャレンジャーとして鈴鹿8耐に臨む」
エースライダーである中須賀の言葉は、エスパルガロ、ローズの両ライダー、そしてチーム全体の総意でもあった。
決勝直前。スターティンググリッドに並んだ3人が、笑顔を絶やすことはなかった。途切れることのない撮影のリクエストと関係者の挨拶、そして差し出される握手に、3人とも丹念に、そして楽しげに応じている。
真夏の日差しがアスファルトに照り返し、革製のレーシングスーツを着用している第1ライダーの中須賀は、もう汗だくだ。それでも彼のニカッという笑顔とサムアップの力強さは、決して勢いを失わなかった。
午前11時半、定刻通りにレースがスタートした。トップで1コーナーに入っていったのは、#17チームカガヤマの清成龍一だ。#21中須賀は、4番手で1周目を終えた。
静かな序盤と言えた。中須賀は2周目には3番手に、3周目には2番手にまで挽回すると、清成の背後にぴたりとつけた。清成がペースを上げると、中須賀も上げる。清成のペースが落ちると、中須賀もペースを落とす。2分8秒台後半から9秒台前半で周回しながら、中須賀はトップから0.1〜0.2秒の差を守り続けている。
YZF-R1の挙動は安定していて、その上にいる中須賀からは、「いつでも抜ける」という余裕が見て取れる。チームスタッフがライダーを信頼しているように、ライダーもマシンを信頼している。
昨年も同じような展開だった。第1スティントの中須賀は、決してライバルの前に出ようとしなかった。燃費。ペース。タイヤ。コース。さまざまな状況を読みながら、中須賀はトップに立たずにペースを守るという走りを選んだ。スプリンターとして全日本の頂点を我が物にしている彼が、耐久レースに勝つための方程式を見せつけたのである。
今年はしかし、中須賀は前を行くライバルを早々にパスした。後方から#634ムサシレーシングチームハルクプロの高橋巧が追い上げてきていたのだ。18周目、コーナーの立ち上がりでミスして加速が鈍った清成を抜き去ると、トップに立った。
スタートから約1時間。トップチームは揃って1回目のライダー交代を行い、その中に中須賀の姿もあった。YAMAHA FACTORY RACING TEAMはすばらしいピットワークを見せ、ローズがコースインしていった。
去年はヤマハのライバルだった彼は、今年からスーパーバイク世界選手権でYZF-R1を走らせるようになった。29日(金)の公式予選で転倒を喫した彼は、YZF-R1のライディング経験が豊富とは言えない。盤石とされていたYAMAHA FACTORY RACING TEAMの、ごくかすかな不安材料だった。
しかし、真夏を日差しを浴びながら走るローズは、予選までとはまったく異なり、すばらしく安定していた。ブレーキングで足を大きく出すアクションにはキレ味があったが、全体的に走りはスムーズで、周回遅れの処理も落ち着き払っていた。ヘアピンカーブで2台まとめてパッシング、というシーンもあったが、十分に間合いを計ってのことで、危なげはなかった。
今年の鈴鹿8耐では、「何事もなければヤマハの連覇だろう」という予想がまことしやかに囁かれていた。それは逆に、「何事があってもおかしくない」という鈴鹿8耐の一側面を強調していた。
だが、起きてほしくない「何事」は、ことごとくYAMAHA FACTORY RACING TEAMをすり抜けていく。手強いライバルたちにトラブルや転倒が襲いかかり、続々と脱落していった。18周目にトップに立って以降、ゼッケン21を付けたYZF-R1は、淡々と周回を重ねた。
ほぼ1時間おきにライダー交代が行われた。エスパルガロは現役MotoGPライダーらしく、イン側に大きく体を落とすライディングを見せたが、決して無理がなかった。TOP10トライアルで披露したアグレッシブの塊のような走りとは異なり、大きな挙動はほとんど起きなかった。それでも、ペースは確実に後続より速い。ブルーのYZF-R1は、着々と差を広げていった。
午後2時30分にエスパルガロから交代し、2度目の走行に臨んだ中須賀は、周回遅れをていねいにさばきながらも、縁石をいっぱいに使うライディングで、さらに後続との差を広げた。午後3時10分、100周を数えた時、2番手の#87チームグリーンとの差は1分40秒にまで広がっていた。
それでも、いつ「よからぬ何事か」に見舞われるかは、分からなかった。完全勝利と言えるポール・トゥ・ウィンまで間もなくあと4時間というタイミングで、中須賀がオーバーランを喫した。コース内での出来事であり、わずかなタイムロスで済んだが、彼らがあくまでも限界領域で勝負していることを窺わせた。
そしてその直後、中須賀はその時点でのファステストラップを刻んで見せたのである。すべては──オーバーランですら──、自分たちの掌中にあることを示すかのようだった。
それにしても、白熱したレースを表現するには奇異だが、最近の鈴鹿8耐としては珍しいほど「穏やかな」レースだった。木、金、土、日と、レースウィークを通して1度も雨が降らなかった。レース中の転倒こそ目立ったものの、去年は6回導入されてレースの流れを左右したセーフティーカーは、1度も入らなかった。レース全体を俯瞰してみれば、特にトップ争いを展開したチームは、安定した流れの中にあった。
モニターに映し出されるのは、下位チーム同士のバトルばかりだった。日が傾き、コースがオレンジ色に染まっていく中、YAMAHA FACTORY RACING TEAMのYZF-R1が画面に捉えられる機会は極端に減っていった。あまりにライバルを置き去りにしていたのだ。午後5時32分、最後のスティントを終えてピットロードに入ってきたエスパルガロは、グランドスタンドに向かって大きく手を振った。その姿はモニターに大きく映ったが、アクシデントやトラブルといったスリリングな見せ場は、まったくなかった。
あまりの安定は、かえって不安を招くものだ。しかしYAMAHA FACTORY RACING TEAMの2連覇の前に、不安と呼べるようなマイナスな要素は似つかわしくなかった。 「ひとりだけが速くても意味はない。全員がコンスタントに走ることを目標に、チームが一丸となってベストを尽くす」。事前テストから始まり、レースウィーク中にも、3人のライダーは常にそう口にし続けてきた。
「1度は勢いで勝つことができる。でも連勝することは、とても難しい」。YAMAHA FACTORY RACING TEAMは、昨年の勝利で、鈴鹿8耐の多くを知った。勝つことの難しさ、そして勝った時の喜びの大きさを。
エスパルガロは「飴をもらった子供みたいに、また欲しくなってしまうものなんだ」と、勝利を希求する気持ちを説明した。その欲は、もちろんレースを戦うための大切な原動力だ。一方でモーターサイクルレースは、その欲に負けることで、トラブルやクラッシュを招くことも少なくない。
バイクのレースは、メカニカルであり、テクニカルでありながら、メンタルが極めて大きく影響するスポーツなのだ。そして、長く、速い鈴鹿8耐は、極度に高いレベルでのメンタルコントロールが求められる。コンディションの変化。高い気温の中でハードなライディングを続けることによる疲れ。続々と現れる周回遅れ。すべてに動じることなく、フラットな気持ちを保ち続けなければならない。
そして彼らは、それを成し遂げた。「何事も」なかったわけではない。外からは分からないほどの細かいミスは間違いなくあったし、それらがギリギリの幸運で大きなミスにつながらなかっただけかもしれない。だが、緊張と弛緩、熱意と冷静、そして爽やかな笑顔と引き締まった口元を巧みに使い分けながら、彼らは勝利へとつながる道を淡々と歩み続けたのだ。
最終走者は、ローズだった。鈴鹿サーキットに押し寄せる暗闇をLEDヘッドライトで切り裂きながら、序盤と変わらない速いペースで走り続ける。ペースを上げもせず、落としもしない。周回遅れをパスするシーンも、必要以上に慎重にならず、かといって無茶もしなかった。
タイヤがふたつしかない不安定なバイクという乗り物を極限まで速く走らせながら、コンスタントさを守り続けるという困難を、彼らはこうして乗り越えたのである。
午後7時30分。去年と同じようにYAMAHA FACTORY RACING TEAMのYZF-R1はトップでチェッカーフラッグを受けた。2連覇を成し遂げた彼らは、喜びを爆発させながらも、どこか充実した落ち着きを感じさせた。
純粋な歓喜に、深みが上乗せされていた。勝ち続ける者たちだけが身に付けられる、澄んだ深みが。