終盤2番手を走るも、4度目のリタイア…
「#21 SHISEIDO TECH21 YAMAHA」は、この年、平忠彦とジョン・コシンスキーのペアで臨んだ。ファクトリーマシンYZF750のカラーリングは、過去4回から大きく変更され、ホワイトをベースに鮮やかなブルーラインが入った新グラフィックで登場。決勝では順調に周回を重ね2番手につけるが、後半、またしてもチェッカーを受けることなくレースを終えることとなった。
1990年に世界選手権のGP250でチャンピオンに輝くコシンスキー。当時は「ロバーツの秘蔵っ子」とも呼ばれていた。1987年の8耐では、カル・レイボーンと組んでYZF750を3位表彰台に導いたが、この年は、TECH21チームが初優勝しそのニュースが大きく取り上げられたため、表彰台はその陰に隠れることとなった。しかし彼のポテンシャルはその後開花。全日本や世界選手権へのスポット参戦を重ね、1989年、世界選手権の開幕戦となった鈴鹿の日本GPでは、GP250初優勝を獲得。ずば抜けた速さと才能を持った21歳のコシンスキーが、熟成のYZF750をどう操るかにファンの期待は大きく膨らんだ。
ヤマハ陣営はこの「#21 SHISEIDO TECH21 YAMAHA」に加え、前年の優勝チーム、ウェイン・レイニー/ケビン・マギーの「#3 TEAM LUCKY STRIKE ROBERTS」、マイケル・ドーソン/町井那生組の「#9 NESCAFE RT YAMAHA」という3チームが参戦。いわば、1987年からのヤマハ8耐3連覇を狙う体制を作っていた。これを阻止しようとしたのが、ワイン・ガードナーと、昨年平とペアを組んだマイケル・ドゥーハンを筆頭としたホンダのファクトリー勢だ。
決勝レースは、有力ペアが転倒やトラブルで次々と姿を消していく展開となるが、ヤマハファクトリーの姿もその中にあった。レイニー/マギー組はメインストレートで突然のエンジントラブルに見舞われ94周でリタイア。ガードナー/ドゥーハン組もドゥーハンの転倒を機に姿を消す。その頃、平/コシンスキー組は3番手を走行しており、前を行くドゥーハンの転倒を受けて2番手に浮上。トップに立つフランス・ホンダの耐久チーム、ドミニク・サロン/アレックス・ビエラ組を追い詰めていく。しかし163周目、コシンスキー走行時にマシントラブルに見舞われ、チェッカーを受けることはできなかった。その直後、もう一台のYZF750もマシントラブルが発生し、ヤマハのファクトリーは全滅という結果に終わったのだった。こうした中、トップでチェッカーを受けたのはサロン/ビエラ組、ヤマハの最上位は3位に入ったサポートチームのピーター・ゴダード/加藤信吾組だった。
TECH21チームは5度の8耐挑戦で4度目のリタイアだったが、このチームの象徴として4大会に出場していた平のチェッカーはまたもお預けとなった。平の優勝、いやチェッカーをくぐり抜けて欲しいと願う思いがさらに強くなった一方、この先、平は8耐のチェッカーを受けられないのではないか… という不安がファンの脳裏によぎったのである。