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YAMAHA TECH21

熱狂の時代
1988

ヤマハの輝きと陰

鈴鹿8耐に臨むファクトリーマシンも、初代「FZR750」を含め4台目となり、#21 SHISEIDO TECH21 レーシングチームの参戦も4年目を迎えた。同時にこの鈴鹿8耐は、海外ライダーにとって世界選手権参戦のきっかけや、そこでの成功を収めるための一つの通過点となりつつあった。ワイン・ガードナーが1987年にGP500のチャンピオンとなり、ケビン・マギーが本格参戦を開始し、ケビン・シュワンツもGPのスターになりつつあったように… さらにウェイン・レイニーもマギーとのコンビでこの年、8耐に初参戦し優勝を遂げ、8耐翌週のイギリスGPで初優勝、1990年からのGP500で3連覇とスターダムへと駆け上がったのだ。

そして今大会の#21 SHISEIDO TECH21 レーシングチームにも、そうした未来のスターが加わった。今回、平忠彦とペアを組み、後にGP500で5連覇を達成するマイケル・ドゥーハンだ。1989年にはホンダに移籍しGP参戦を開始するが、ドゥーハンはヤマハを駆って、1987年TT-F1世界選手権SUGO大会で3位入賞など、伸び盛りのライダーだった。

「彼はセッティングもあまり気にしなかった。滑ろうが何だろうがお構いなしに走ってしまう」と平は後にドゥーハンを語っているが、予選ではその平を超えるタイムを叩き出し期待通りの速さを見せていた。

ヤマハの布陣はファクトリー3台。平/ドゥーハンのペアに加え、この年GP500へフル参戦を果たしスペインGPで初優勝を遂げた昨年の8耐優勝ライダーであるマギーが、GPでのチームメイトだったレイニーとペアを組んで参戦。チームもGP同様に、#3 Team Lucky Strike Robertsだった。もう1台はマイケル・ドーソン/町井邦生組の#6 Y. R. T. R.である。

レースは序盤からレイニー、ガードナー(ホンダ)、シュワンツ(スズキ)らのGPライダーによるトップ争いが繰り広げられた。1回目のライダー交代を終えた頃は、マギー組とドーソン組のYZF750同士のトップ争いに。しかしドーソンが転倒、戦線復帰するが優勝争いからは後退してしまう。一方、その後もハイペースで周回を重ねたマギーとレイニーのGPコンビが、独走してヤマハの2連勝を達成したのだ。

一方のTECH21チームは、マギー/レイニー組には及ばなかったものの終盤まで表彰台圏内を力走したが、またも悲運が襲う。3番手走行中、7時間50分が経過した頃だった。197周目のS字手前で平の駆るYZF750がストップ。平にとっては3度目の挑戦だったが、またしてもチェッカーを受けることはできなった。ヤマハにとって2連勝は、「すべてのライバルを力でねじ伏せての堂々たる勝利」と称賛されるものだったが、「TECH21」のファンは、また歯がゆい思いでレース後の花火を眺めたのだった。

決勝日には当時の過去最高となる157,000人もの観客が詰めかけた
パドックで笑みを浮かべる平。この年は世界と日本のGP500に参戦
装いも新たになったTECH21キャペーンガール
スタートライダーはドゥーハンが務めた
ブラックのラインが入り引き締まったニューグラフィックのYZF750を駆る平
ピット作業も順調だったTECH21チーム。報道陣の数が人気を物語る
必死に追い上げる平
YZF750を巧みに操るドゥーハン、夕暮れまでは順調だったが…
初参戦のレイニーはマギーと組んで快走
TECH21はリタイア、レイニーとマギーがヤマハに8耐2連覇をもたらした
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