2年連続リタイア、哀愁漂うTECH21
1985年、ケニー・ロバーツと平忠彦のコンビで、ヤマハ初のファクトリーチームとして鈴鹿8耐に出場した「ヤマハ TECH21チーム」は、ラスト30分で勝利の女神に見放される悲劇的な結末で大会を終えることとなった。そして1986年は、「SHISEIDO TECH21 レーシングチーム」とし、平を第1ライダーに、新たにクリスチャン・サロンを迎え参戦した。しかし結論から言えば、悲劇的な流れを断ち切ることは叶わなかった。
平は前年の1985年の全日本500ccでV3を達成し名実ともに日本最速の称号を手に入れ、1986年は念願のGP250にフル参戦を開始していた。開幕戦スペインGPでは予選2番手と期待されるも、スタート直後に後続車に追突され左足を骨折する不運なシーズン序盤。そんなバットラックを乗り越え、また前年の悲劇的な終焉により、再び8耐に帰ってきた平にファンは一層熱い視線を送っていた。
ペアを組むサロンは、1984年のGP250チャンピオン。当時、フランスのヤマハ代理店、ソノート・ヤマハから市販TZ250でGPを走っていたのだが、その鮮やかなブルーのマシンに憧れたファンも数知れない。そして1985年からGP500に参戦を開始してランキング3位、そしてこの年もGP500に参戦していたサロンが鈴鹿に初めてやってきたのだ。
ヤマハのファクトリーマシンは、呼称をFZR750からYZF750に。前年は2台を出場させたが、この年は3台へ増車。「SHISEIDO TECH21 レーシングチーム」に加え、ロバーツとマイク・ボールドウィンの「TEAM LUCKY STRIKE ROBERTS」、平塚庄治/塩森俊修組の「チームレーシングスポーツ」という3チームが出走した。決勝では前年の覇者ワイン・ガードナー/ドミニク・サロン組(ホンダ)が序盤からリードを広げていく展開。これを追うのが「SHISEIDO TECH21 レーシングチーム」と「TEAM LUCKY STRIKE ROBERTS」だった。
「TECH21」のハンデは平とサロンのシフトパターンの違いにあった。踏み込んでギアを上げていくレーサーシフトの平に対して、サロンは通常のスポーツバイクと同様のシフトパターンを好んだ。このため、ライダー交代毎にシフトペタルを変更する特異な風景が見られることとなった。それでも順調にラップを重ねトップを追っていったが、4時間を過ぎた頃、3番手を走行中にマシントラブルが発生して昨年に続きリタイア。あまりにも早くあっけない幕切れだった。平は翌日に世界GPへの移動日を控えていたため、レース終了を待たずに鈴鹿をあとにしている。
コースではその後、「TEAM LUCKY STRIKE ROBERTS」もボールドウインの転倒で戦線離脱。平塚組は力走し4位に滑り込んだ。またヤマハ車を駆る豪州ライダーコンビが活躍。市販FZ750にキットパーツを組み込んで臨んだマイケル・ドーソンとケビン・マギー組が2位表彰台に立った。優勝のガードナー/サロン組に遅れること2周だった。FZの表彰台はヤマハにとってうれしい結果だった。ただTECH21の走りが4時間少々で終わったことに、落胆を隠せないファンも多かった。