熱狂を生み出した“夢の共演”
1985年6月、全日本ロードレース選手権鈴鹿200kmの決勝前日、ケニー・ロバーツの姿が鈴鹿にあった。サーキットホテル内でのプレス発表会に出席したロバーツは、「1年半ぶりのレースだし、耐久は初めての経験。でもマシンを信頼しているし、日本No.1の平選手と一緒に走ることができることをうれしく思う」と8耐への参戦を表明した。
すでにGPの現役を引退していた“キング”ことロバーツだが、8耐参戦というビッグニュースにファンの心は大いに躍った。それまでロバーツが日本を走ったのは宮城県のスポーツランドSUGOで開かれていたTBCビッグロードレースでの数回だったことから、鈴鹿で見られる“本気”の走りに期待を寄せたからだ。
さらにペアを組むのは1983-84年と全日本500ccでチャンピオンを獲得し、この年もV3に向けてシリーズを戦っていた平忠彦。その当時、人気・実力は国内No.1と誰もが認めていたライダーである。この平が資生堂の男性化粧品ブランド「TECH21」の広告キャラクターに起用されていたことから、チームは「ヤマハ TECH21チーム」という名で結成された。マシンは、この年デビューした新生スーパースポーツ、FZ750をベースとしたFZR750の耐久仕様。ヤマハ初の4ストロークファクトリーマシンだった。
7月末の予選、鈴鹿を走ったロバーツは、当時のTT-F1レコードを更新する2分19秒台を叩き出してポールポジションを獲得し”キング”の貫録を見せつけた。そしてスタートライダーを務めたものの、エンジン始動に手間取り大きく出遅れる。しかしこのアクシデントが、チームの力を際立たせることとなったのは言うまでもない。
ロバーツは、ほぼ最後尾から驚異的な追撃を見せた。4周目14番手、10周目6番手、20周目には2番手に浮上。22周を終えロバーツから平へ交代すると、スタートから1時間32分後の38周目、ワイン・ガードナー/徳野政樹組(ホンダ)を抜いてトップに立ち、その後も快調に周回を重ねていった。
夕闇になってもトップの座を守り、観客の多くが「TECH21」の初出場・初優勝を確信しはじめた。ところがラスト30分、平が駆るFZR750がエンジン回転を落とした。メインストレートから第1コーナーに入るシフトダウン時、バックファイヤーのような音を感じた平は、オイル漏れを心配しコース端にマシンを寄せスロー走行をはじめた。ピットロードには入らず、コース上のゴールライン手前でマシンを停止させると、チーム監督とプラットホーム越しに会話をして、平は静かにマシンを降りた。
終わってみれば182周を走るもDNC扱いに。優勝はガードナー組となったが、この年のハイライトは間違いなくTECH21カラーを駆る2人の衝撃的な走りだった。ただ悲劇的な結末だったからこそ、ファン記憶に刻みこまれ、8耐史上の最大の熱狂が生み出されるきっかけとなったのだ。