STEADY 「勝つために、変化を厭わない」
表彰台でレーシングブーツを脱ぐと、ジャック・ミラー選手はシャンパンを注ぎ入れた。レース中に履いていたブーツの内部は、間違いなく汗まみれだろう。そこから直接グビグビとシャンパンを飲み干すと、ファンからは悲鳴交じりの大歓声が沸き上がった。
「シューイ」と呼ばれるこの儀式は、オーストラリア人のレーシングライダーやドライバーがレースの表彰台でしばしば披露するものだ。ちょっとお行儀が悪く、それだけに人間らしさがあふれる。はめを外したくなるほど大きな喜びが、見る人にダイレクトに伝わってくるのだ。だからミラー選手が表彰台に立つと、誰もがシューイに期待する。
個性派揃いのMotoGPライダーたち。その中でも、ミラー選手には異色の存在感がある。コースサイドにマシンを止めたライダーを、自分のマシンの後ろに乗せてピットまで運ぶ「ジャック・タクシー」は、ライバルがヒッチハイクするほど定着している。モニター越しにファンとリアルタイム交流する姿も人気だ。枠にはまらない陽気さは、ネットミーム化され、いじられ、愛される。MotoGPで4勝をあげ、23回表彰台に立っている実力と明るいキャラクターの混在が、多くの人を惹きつけるのだ。
だが7月上旬、YAMAHA RACING TEAMのプライベートテストのため鈴鹿サーキットのピットにいたミラー選手は、意外なほど穏やかで、ライディングもステディだった。
モニターに表示される彼のタイムは、じれったいほど落ち着き払っている。じわじわとしたスローペースながら、それでも確実にタイムを短縮していく。その様子からは、MotoGPライダーのプライドや剥き出しの闘志などといった気負いは見えてこない。浮かび上がってくるのは、慎重さ。ミラー選手はこのレース──鈴鹿8耐に本気で勝とうとしている。
「EWC仕様のYZF-R1に乗るのは初めてだったし、鈴鹿サーキットを走るのも2017年の鈴鹿8耐以来。タイヤもMotoGPのミシュランからブリヂストンにスイッチするし、覚えなくちゃならないことがたくさんあるんだ。それに鈴鹿8耐は、普段僕が戦っているMotoGPとはまったく違うスタイルのレース。本当にいろいろな要素に対応する必要があるからね......。YZF-R1に関しても、いろいろなセッティングを試していたよ」と、30歳のオーストラリア人は言った。
「それに......」と、笑いながら付け加える。
「意外と思われるかもしれないけど、ピットボックス内では、できるだけ落ち着くようにしているんだ。より正確で、より明確な取り組みを心がけている。だから、イメージとはだいぶ違うんだろうね」
「ジャック(ミラー)は、結構大変なんですよ。YZF-R1をうまく走らせるためには、普段彼が乗っているMotoGPマシンYZR-M1とライディングを変えなくてはいけませんからね」と説明するのは、吉川和多留監督だ。
吉川監督によると、YZR-M1はかなりハードにガツンとブレーキングして、クルッと向きを変え、スロットルを大きく開けて走らせるタイプのマシンだ。MotoGPマシンらしく、かなりアグレッシブなライディングが求められる。
一方のYZF-R1は、スムーズかつ丁寧で効率のよいライディングフィットする。ふたつのマシンは対極のキャラクターを備えており、ミラー選手は考え方、走らせ方を変える必要がある。
「対極」とは言っても、極めて高いレベルでのわずかな違いの話だ。「アグレッシブ」そして「スムーズ」という両極にある言葉から想像するほど、大きな差異はない。一般ライダーのイメージからすれば、YZR-M1もYZF-R1も「極端なほどハードなライディング」であり、「アグレッシブ」と「スムーズ」の境界は分からないほど微妙だろう。
だがそのわずかな差は、彼らトップライダーたちにとって、決して看過できない差なのだ。そして、その小さな差の積み重ねが、勝ち・負けという大きな差につながることを、彼らは熟知している。だからこそミラーは、鈴鹿8耐のテストに慎重に取り組み、より正確な理解を心がけている。
それと同時に、ミラー選手はYZF-R1のライディングを楽しんでもいた。
「ペースアップは少しずつだけど、乗れば乗るほど扱いやすくなっているよ。YZF-R1を走らせながら、ヘルメットの中ではいつも笑顔さ!」
時間が経つにつれて、ピットボックスでも持ち前の明るさを見せるようになった。ピット作業の練習をする前、おどけながらポーンとピットクルーの尻を軽く叩く。「うわ、何するんだよ!」と、驚いたふりをしながら笑うピットクルー。練習直前の緊張感が一瞬ほどけて、無駄な力が抜けた。
「今もバイクに乗ることが楽しくて仕方がないんだよ」と、ミラー選手。
「理由は......うまく説明できないな。子どもの頃から、毎日のようにバイクに乗ってたからね。自分が唯一得意だと思えて、集中して取り組めることだったんだ。バイクに乗るってことは、幸せな場所に行くって感じなんだ。バイクに乗るとすべてを忘れて、ただバイクのことだけを考えていられるんだよ」
ただバイクを走らせるだけではない。バイクに乗ってレースすることを、ミラー選手は愛している。
「勝負のスリルが好きだ。そして、負けるのが嫌いだ(笑)。何が起こるか分からないのが、レースというもの。その"分からない"ことが楽しいんだよ。分からない状況に対応することが、ね」
鈴鹿8耐は、スタートの午前11時半からゴールの午後7時半まで、「分からない状況」に対応し続けるレースだ。だからミラー選手は楽しみで仕方がない。
「テストでは決勝レースのシミュレーションも行って1スティント分を走ったけど、あれを何度か繰り返すんだよ?(笑)本当に長くて体力を使うレースだな、と改めて思った。でも、自分の体力やメンタルを試すのも大好きだからね。そういう意味でも、本当に楽しみだ」
前回の鈴鹿8耐参戦は、2017年。4位で表彰台を逃した。当時22歳だったミラー選手も、30歳になった。今や一女の父でもある。
「変わったこともたくさんあるけど、変わらないこともある。そのひとつが、鈴鹿8耐への思いだ。4位でレースを終えてしまった2017年から、ずっと『鈴鹿8耐の表彰台に立ちたい』と思い続けていたんだ。今年、ヤマハとMotoGPの契約をするにあたって、まっさきに"鈴鹿8耐には参戦できる?"と聞いたぐらいだからね(笑)。
鈴鹿8耐には、日本の素晴らしいレーシングライダーがたくさん参戦する。そしてこのレースには、ワイン・ガードナーやミック・ドゥーハン、それにバレンティーノ・ロッシなど多くのグランプリライダーが参戦してきた歴史がある。そんな鈴鹿8耐を、アンドレア(ロカテッリ)と中須賀さんという強力なチームメイトと戦えるんだから、本当に素晴らしいことだよ!」
「パパ・ミラー」には、お楽しみもある。
「テストには来なかったけど、本戦には家族も連れてくるんだ。鈴鹿サーキットの遊園地に行けたら、娘は大喜びするはずさ(笑)」
そして、力強く朗らかに、こう締めくくった。
「2022年のもてぎでは、シューイをやった(MotoGP・日本GPで優勝)。鈴鹿でもやってみたいよ。それはつまり、鈴鹿8耐に勝つってことだからね」