「大きな困難こそ、最大のチャンス」吉川和多留監督
野左根航汰選手のスーパーバイク世界選手権(WSBK)デビューに合わせ、第1-3戦まで帯同したYAMAHA FACTORY RACING TEAMの吉川和多留監督に、現地で感じた様々なことをお話しいただきました。
航汰を取り巻く環境は、住居、言語、食事といった生活の根本が変化だけでなく、マシン、タイヤ、チーム、サーキットもほとんどが初めてのものばかり。さらにウィークのスケジュールも違えば、ライバルは皆、強敵揃いという状況にあります。普通であれば、かなりストレスを感じるはずですが、航汰は抗うことなく素直に受け入れながら必死で頑張っており、その様子にホッとしつつ、レースでの戦いぶりにも頼もしさを感じることができた欧州遠征となりました。
約1ヵ月という期間ですが、WSBKで結果を残してもらうため、全力でサポートしようと心に決め欧州に向かいました。私自身も1996年にWSBKにフル参戦した経験がありますが、そこで成績を出して存在感を確立し、WSBKの住人になるつもりで向かった過去があります。しかし、思うような成績を残すことができず、悔しい思いのまま日本に帰ることになりました。その原因の一番は自分が甘かったからにほかありませんが、航汰にはそうした思いだけはして欲しくないという気持ちがあったからです。
ここまでの3戦を見ると、トップ10フィニッシュが1回と簡単ではない状況に見えるかもしれませんが、私の目には突破口があると見て取れました。その一つが戦う姿勢です。WSBKのバトルは、体やマシンをぶつけ合い、ツナギがボロボロになってしまうほどの激しさがあります。本人もそうした経験値が少ない中で、見事にそのバトルに順応していました。序盤からスイッチを入れて勝負できる才能を航汰は持ち合わせているのです。これは絶対的に必要なスキルなので、それを持ち合わせているだけでも、WSBKの一員として戦っていく資格を有しているということです。
その一方で、散々触れられていることですが、サーキットの違い、タイヤの違いに慣れながらライディングスタイルを変えていく必要があります。どこでどうやってタイムを削るのが最も効率的かを理解し、それを具現化させなければなりませんが、だからこそ伸び代は半端ないほどあると感じました。特に慣れが必要になるのがタイヤですが、フロントタイヤをうまく使いこなすことが必須です。トプラック選手らトップライダーの走りを見ているとMotoGPと遜色ないハードブレーキングが見て取れますし、そこから前後タイヤをスライドさせながら素早く向きを変えて、アクセルを開けていく。フロントをうまく使う走りが必要になってくるのです。
航汰は以前にも話した通り深いバンク角が持ち味であり、センスの塊です。それがWSBKでも武器になっていることは言うまでもなく、コーナリング中の速さはWSBKのメンバーの中でもトップクラスで、航汰自身も手応えを掴んでいます。しかし欧州のサーキットでは、その武器がうまく機能しないこともあります。
日本のサーキットは常に良いコンディションで、コーナーにカントがあるため航汰の長所を生かせる状況があります。しかし欧州のサーキットのコンディションは決して良いとは言えません。またカントがなくフラットなコーナーが多いため日本で発揮していたようなアドバンテージを作りきれないことがあるのです。
※カント:コーナーでイン側(低)からアウト側(高)にかけて傾斜がついている状態のこと。
また、過去3戦ではハスラム選手やサイクス選手、ファンデルマーク選手というビッグネームとバトルする場面がありましたが、その全員が中須賀選手に匹敵する実力者。順位を上げていけば、中須賀選手かそれ以上の実力を持ったライバルがいるわけです。そのバトルを勝ち抜くためには、強い精神力とともに最後まで全力で戦い抜ける体力がさらに高いレベルで要求されることは間違いありません。
これらを総合すると航汰は今、とてつもなく大きな壁の前に立っています。しかし私は「なんて恵まれた環境にいるのだろう」と思ったわけです。さらにレベルアップできる、努力しなければならない環境にいるからです。航汰のマインドは当然後者にあり、成長するために必死になっています。でも、私が伝えたのはもっと貪欲になってもいいということでした。今以上に自分に厳しく、私を含め周りの環境をフル活用して成長しようと。
そのためには、支えてくれるチームも大切ですが、密なコミュニケーションはまだ難しいとは言え、航汰を引っ張ってくれる気質があり、要求に対して受け入れるだけの体制と技術もあるとても良いチームだと感じました。私自身としても、今回の渡欧で航汰の特性をチームにしっかりインプットすることができたので、今後は互いが理解を深めながらさらに良いコンビネーションを育んでくれるはずです。
一方、ガーロフ選手はチームを自分が引っ張っている状況になっていますが、航汰にも早くその位置に近づいてほしいとも思っています。そのためには結果を残すことも必要で、それに伴って自分が必要な環境を作りながら、チーム全体がレベルアップしていくのです。
残念ながら航汰は怪我をして第4戦を欠場しましたが、このまま環境に慣れ努力を重ねていけば、安定してトップ10に入っていける力があると私は思います。そこまでいけば、また世界が変わり多くを学ことができるはずです。私がYZR-M1のテストをしていた時、何度も感じていたことがありました。それは、MotoGPライダーたちとの感覚の差です。例えば彼らのバイクの倒し込みは、数センチレベルですが確実に深く、正確で速い。実際は微々たる差ですが、私にはそれができずとても悔しい思いをしました。航汰もそうした小さな差を痛感しながら、その領域に足を踏み入れようとしています。時間はもうし少しかかるかもしれません。でも、私は必ずやり遂げてくれると信じています。
ファンの皆さんも、もがきながら前進する航汰の成長を楽しんでもらえればと思います。彼はきっとその期待に応えてくれるでしょう。