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2021

「ノリが描いた夢を、ぜひつなげてほしいと願っています」チームノリック阿部光雄監督

2021.05.12

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ノリックこと、故阿部典史選手の父であり、ノリックからチームノリックを引き継いで監督となり、野左根選手を幼少期から支えてきた阿部光雄さん。その阿部監督に、様々なエピソードを交えて野左根選手が現在に至る基礎を築いた青年期までをお話しいただきました。

2007年にノリ(阿部典史)がスーパーバイク世界選手権から帰国し、全日本ロードレース選手権に参戦することになりました。そこで時間ができるだろうと、以前から考えていた「世界GPライダーを育てたい」という計画を進めることになったのです。

ヤマハをはじめ様々な協力もあり、いずれは「GPチームを作ろう」と動き出したのですが、そのためには練習場が必要だということで探し始めた時に、茨城県のイワイサーキットが売りに出されていると聞いて出かけていったんです。ところがコースは売りに出されていませんでしたが、そこで見つけたのが10歳の野左根航汰でした。

イワイサーキットにはオフロードコースとミニバイクコースがあって、航汰はオフロードを走り終えると、今度はバイクをオンロードバイクに乗り換えてミニバイクコースを走り、またオフを走るということを繰り返していました。まずは、その姿勢が目に留まり、走りを見ると開けっぷりが良くて、さらにバランスも良く「チームノリックに入りませんか?」と声をかけたことが、すべてのはじまりです。

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チームノリックの一員となってからは、走り込みが大事だと走行機会をとにかく増やしました。航汰の家が、もてぎや筑波の行き帰りに便利な場所だったこともあって、時間ができたら迎えに行って練習しました。

ロードレースを始めてからも、結果というよりも練習が優先の参戦計画でした。ガンガン走ることをモットーに、雨でも雪でも走り続けけたことを今でもよく覚えています。モトクロス、ダートにモタードと、なんでも挑戦しましたね。

ダート練習も良くいきましたが、航汰のドリフト走行は目を見張るものがあって、アクセルを開けながら、綺麗にカウンターを当ててコーナーリングしていました。その姿は、ドリフトチャンピオンが見惚れるほどで、センスの良さを感じさせるものでした。

子どもの頃、ノリと一緒に走っていた加藤大治郎*も、バランスが良く、「絶対、世界チャンピオンになるよ。心配ない」と父親に声をかけたことがありました。航汰もそういった可能性を感じさせる子だったので、絶対にGPに連れて行きたいと思っていたんです。

*加藤大治郎選手:1994年、250ccクラスで全日本デビュー。1997年には同クラスでチャンピオンを獲得し2000年からロードレース世界選手権へフル参戦を開始。2001年には年間11勝で250ccクラスのチャンピオンを獲得。2002年からは世界のトップライダーの一人としてMotoGPへステップアップを果たしました。しかし、2003年の開幕戦日本GPでの転倒により、26歳の若さで逝去されました。

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ところが、2007年の秋にノリが交通事故で他界してしまいました。チームノリックの存続については悩みましたし、自分の中でいろいろな葛藤もありましたが、多くの支援もありチームを継続。これで航汰は走り続けることとなり、2013年にはスポットでMoto2にも参戦し、順調にGP参戦に向けた準備は進んでいきました。

印象に残っているのは、オーストラリアのフィリップアイランド。あそこは攻略が難しいコースで知られていて、さすがの航汰も「生まれて初めてのサーキットを走るのは怖い」と漏らしていました。ぶっつけ本番で、練習なしの走行だから、無理もありません。おまけに転倒して指を痛めて、どうなることかと思ったら、翌日には開き直ったのか、驚くほど速くなっていたんです。マルク・マルケスが、200kmオーバーでカウンター当てながら縁石ギリギリのコーナーリングをしていましたが、航汰も負けずにダートに飛び出しながらも同じように回ろうとしていて度胸も感じました。決勝では勢いを取り戻して、とにかく、前のライダーに食らいつき頼もしさも感じたものです。

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その年、全日本のJ-GP2でチャンピオンになり、世界GP参戦が現実しようとしていました。ここまでこぎつけるのは本当に大変でした。この時期、GPで新規チームを作るのは困難で、参戦を待つウエィティングが32チームもいるという状況だったのです。それでも、伝手をたどり、多くの人の支援で、なんとか参戦のメドが立ったところで、航汰の周りで様々なことが起こり、GPに行くことが難しいと断念することになったのです。大変な状況であることは理解していました。でも、私自身も挑戦してほしい思いが大きかったので、本当にいろいろと悩みました。

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これで航汰も走る場所がなく活動休止か引退かという状況になりました。しかし、「全日本なら走りたい」と聞こえて来て、もう一度、航汰を走らせるために奔走しました。それが2014年の1月末のことで、もうすべての体制が決まっていて航汰の入り込む余地はありませんでした。

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ところが、「J-GP2チャンピオンが参戦するならJSB1000だろう」とヤマハが動いてくれ、ギリギリの状況からパーツを手配してマシンを準備してくれました。さらに多くのサポートもあり、まさに大逆転、奇跡のようにJSB1000参戦が実現したのです。

翌年にはヤマハの育成チーム「YAMALUBE RACING TEAM」ができて抜擢されてキャリアを積み、いつしか若手から目標とされるライダーとなり、スーパーバイク世界選手権への参戦を実現。描いていたシナリオとは、少し異なりますが、世界に挑戦をするまでになったかと思うと感慨深いものがあります。

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1年目は難しいと思いますが、来年にはチャンピオンのジョナサン・レイをターゲットにして、ぜひ負かしてほしいですね。航汰ならできるはずと信じています。そして、いつの日かノリが描いた夢をつなげてほしいと願っています。

 
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