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HISTORY

ヒストリー

1978年に始まった鈴鹿8耐は一般市販車とレーサーが混走し、国際ライセンスがなくても出場がすることができる競技として誕生した。それから2年後の1980年。世界耐久選手権の一戦に組み込まれると、ライダーも欧州の耐久チームやUSのスーパーバイクを走るトップライダーが出場をはじめ、各メーカーもファクトリーチームを組織し、いつしかWGPのトップライダーが多数出場するようになる。こうした中で、多くの名ライダーも生まれた。ケビン・マギー、ケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハン、ワイン・ガードナー、ウェイン・レイニーらは鈴鹿8耐を通じて名を馳せ、世界の頂点へと登り詰めることとなった。

各メーカーが、超一流ライダーを起用し、マシン、チームのレベルアップを図り、ありったけの力を注ぎ続けた結果、耐久レースでありながらスプリントレースに匹敵する速さが加わった鈴鹿8耐は、日本のモータースポーツファンにとって世界耐久選手権の一つのレースではなく、「鈴鹿8耐」という独自のジャンルとして位置づけられた。その人気も圧倒的で、過去にはレース期間中に35万人以上の来場者を記録する日本最大の二輪モータースポーツイベントへと成長を遂げた。2000年代に入ると、徐々に欧米ライダーの参戦が少なくなり、ファクトリーチームが撤退するなどで来場者も減少したが、今なお鈴鹿8耐が日本のバイク界に絶大な影響力を与えていることを誰も否定しない。

ヤマハは、耐久レースに適した4ストロークマシンがない1978年の第1回大会から多くのライダーとともに真夏の鈴鹿を戦ってきた。ファクトリー活動は、1984年に開始。以降、トップを走りながら残り30分で勝利の女神に見放されるなど、幾度となく辛い経験もしてきたが、2002年まで国際色豊かなファクトリーチームで活動を続け、4度にわたり、花火が彩る夜空に光輝くトロフィーを掲げている。

2003年以降は欧州の世界耐久選手権チームをサポートするなど、ファクトリー活動を休止していたが、創立60周年を迎えた2015年、参戦マシンとなるYZF-R1の新型導入とともにファクトリーチームを復活。1996年以来19年ぶり5度目の優勝を果たすと、そのまま4連覇を達成。2019年は、ヤマハのエースゼッケン「21」のオリジンである1985年の「ヤマハTECH21チーム」の復刻カラーで出場。ライバルとの激闘の末、暫定ながら一時は優勝となるも審議によるリザルト改訂で2位と劇的な幕切れで5連覇はならなかったが、鈴鹿8耐史に残る新たな物語をまた一つ積み上げることとなった。

2020-2021年は、新型コロナウイルス感染症の感染が世界中で拡大したことに伴い、鈴鹿8耐は中止となったが、2022年には3年ぶりに世界耐久選手権のスケジュールに復帰。国内最大級のモータースポーツイベントとして多くのファンを集めた。


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1978
2位杉本五十洋/D・エムデ(TZ750)
予選ではヤマハマシンを使用するエデムが2分19秒23でポールポジションを獲得。決勝は43台中20台が2ストロークマシンTZを中心とするヤマハ車となり、杉本/エデム組が2位表彰台を獲得した。
1979
11位堤稔/西川毅則(TZ250)12位佐藤順造/荘利光(TZ350)55位金谷秀夫/藤本泰東(TZ750)
GPライダー金谷がTZ750改で参戦。予選を欠場したため最後尾の60番手からスタートするもトップに浮上。しかしペアライダーの藤本が転倒しリタイアに終わった。
1980
48位釆女貞男/釆女カズマサ(R5)50位阿部三吉/和歌山利宏(IT400)
世界耐久選手権に組み込まれたこの年、ヤマハ車は磐田レーシングファミリーを含む2台が決勝を走るも、ともにチェッカーを受けることができなかった。
1981
32位阿部三吉/和歌山利宏(IT465)
有力プライベーターと世界耐久選手権チームが多数参戦するなか、ヤマハは磐田レーシングファミリーのみがエントリー、144周目にリタイアとなった。
1982
4位阿部三吉/和歌山利宏(XJ750)
台風の直撃で6時間に短縮され行われた今大会、大雨により有力チームが次々と姿を消す中、メーカー系のテストチームが上位に進出。ヤマハもテストチームのモトスポーツが4位を獲得した。
1983
20位東條健/杉山孝(XV)23位竹内敏也/山本賢二(XJ-900)
ヤマハ車は5台がエントリー。最上位は20位。これに続いたのが23位の磐田レーシングファミリー。
1984
5位上野真一/河崎裕之(XJ750)22位上野元晴/山本賢二(XJ750)
排気量が1000ccから750ccに変更となったこの年、ヤマハファクトリーチームが鈴鹿8耐初参戦し、市販モデル「XJ750E」をベースとしたマシンで出場。終盤まで4位を走るも残り10分でトラブルが発生。コントロールライン直前にマシンを止め、マシンを押してチェッカーを受け5位を獲得した。
1985
13位斉藤光雄/田村圭二(FZ750)15位山本賢二/鈴木隆(FZ750)17位K・ロバーツ/平忠彦(FZR750)
鈴鹿にロバーツが初登場。日本最速の平とペアを組み、新型5バルブエンジン搭載のFZR750で出場。決勝でロバーツ/平組はスタートで遅れ、最後尾から追い上げてトップへ。しかし初優勝まで残り32分となったところでマシントラブルが発生し17位となった。
1986
2位M・ドーソン/K・マギー(FZ750)4位平塚庄治/塩森俊修(YZF750)43位K・ロバーツ/M・ボールドウィン(YZF750)49位平忠彦/C・サロン(YZF750)
平/サロン組、ロバーツ/ボールドウィン組、平塚/塩森組にファクトリーマシン「YZF750」を託したが、最上位は市販FZ750を駆るドーソン/マギー組の2位。ヤマハ5バルブエンジンにとって、鈴鹿8耐初の表彰台となった。
1987
1位M・ウィマー/K・マギー(YZF750)3位J・コシンスキー/C・レイボーン(YZF750)8位斉藤光雄/鈴木了(FZR750)
10回目を迎えた鈴鹿8耐。ガードナー(ホンダ)の3連覇を阻止する形で、ヤマハファクトリーチーム「SHISEIDO TECH21 RT」のウィマー/マギー組が初優勝を獲得した。詳しく見る

ラスト5分の大逆転。ヤマハ鈴鹿8耐初優勝!

1987年、10回目を迎えた鈴鹿8耐でヤマハは、M・ウィマー/K・マギー組、J・コシンスキー/C・レイボーン組、平塚庄治/町井邦生組にファクトリーマシン「YZF750」を託した。この中のエースチームが「SHISEIDO TECH21 RT」。ライダーは当初、平忠彦とマギーが組む予定だったが、直前に行われたフランスGPで平が怪我を負ったため、急遽代役としてウィマーが出場し、平は監督としてチームに加わった。

ライバルは、鈴鹿8耐を2連覇中、GPでもチャンピオンに王手をかけていたW・ガードナー/D・サロン組(ホンダ)。そしてGPで頭角を現し始めていたK・シュワンツ/大島行弥組(スズキ)。決勝ではシュワンツが早々にリタイア。一方、ガードナー/サロン組は、予想通りトップを独走していたが、4時間30分経過時にサロンが転倒し、優勝はG・グッドフェロー/高吉克朗組(スズキ)と、それを追うマギー/ウィマー組に絞られた。

200周でチェッカーが降られたこのレース、160周を過ぎたところで両チームの差は約30秒。さらに残り10分では10〜11秒差と緊迫した展開となる。しかし、レース終了まで5分となったところでレースが大きく動く。198周目の第2コーナーで高吉が転倒。その脇をマギーが駆け抜け、1984年のファクトリー参戦開始から4回目の挑戦で、ヤマハは初優勝を獲得した。さらに、コシンスキー/レイボーン組が、安定した走りを見せ3位に入った。

1988
1位 K・マギー/W・レイニー (YZF750)8位M・ドーソン/町井邦生(YZF750) 9位平忠彦/M・ドゥーハン(YZF750)
WGPをはじめ、国内外のスターライダーが揃ったこの大会。マギー/レイニー組がライバルたちの追随を許さず、圧倒的な強さでヤマハに2連勝をもたらした。詳しく見る

マギーと8耐初登場のレイニーコンビで、ヤマハが2連勝

この大会のヤマハファクトリーチームは、2連覇を狙うK・マギーとWGPで売り出し中のW・レイニーが組む「Team Lucky Strike Roberts」、そして「SHISEIDO TECH21 RT」から平忠彦と、後にWGP最高峰で5連覇を達成する若きM・ドゥーハン。さらに「Y.R.T.R」のM・ドーソン/町井邦生組と、豪華なメンバーが揃った。ライバル勢も強敵が揃い、WGPで全盛を迎えていたW・ガードナー(ホンダ)、力をつけていたK・シュワンツ(スズキ)などが参戦し、WGPに匹敵する夢の共演が実現した。

そんな中、当時GP500未勝利ながら調子を上げていたレイニーがポールポジションを獲得。序盤は予選2番手のガードナー/M・マッケンジー組がトップを走るが、1回目のライダー交代後の27周目、マギーがマッケンジーを抜いて首位に立つ。これに続いたのがドーソン/町井組、マッケンジーをとらえて2番手に上り、YZFがワンツー体制を築く。しかし、その後ドーソンが58周目に転倒し、優勝争いから脱落。一方、ガードナー/マッケンジー組も、4時間15分経過時、S字でトラブルが発生して106周でリタイアとなった。

トップのマギー/レイニー組は快調にラップを重ねて独走。前年の200周を上回り、当時の新記録となる202周で優勝のチェッカーを受けた。ヤマハとマギーにとっては1987年に続き2連勝。平/ドゥーハン組は終始トップ集団につけるが、終了10分前の7時間50分、3位走行中にトラブルでチェッカーは受けられず9位となった。

1989
3位P・ゴダード/加藤信吾(FZR750R)44位M・ドーソン/町井邦生(YZF750) 45位平忠彦/J・コシンスキー(YZF750) 50位W・レイニー/K・マギー(YZF750)
ヤマハはファクトリー3台体制で3連覇を目指し臨んだが、3台ともにチェッカーを受けられず、3連覇には届かなかった。ヤマハ最上位は、ゴダード/加藤組の3位。優勝はフランスホンダ、1983年以来の耐久チームの優勝だった。
1990
1位平忠彦/E・ローソン(YZF750)4位永井康友/加藤信吾(YZF750) 5位町井邦生/藤原儀彦(YZF750)
ガードナー/ドゥーハン(ホンダ)という本命を破り、ヤマハファクトリーチームの平/ローソン組が、205周という新記録とともに、ヤマハに3度目の栄冠をもたらした。詳しく見る

悲劇のヒーロー平が、ローソンと組んで初優勝

GPライダーの参戦が盛んだったこの頃、ヤマハのエースはGPライダーではなく日本で圧倒的な人気を誇る平忠彦だった。しかし、その平は、K・ロバーツと組み優勝を目前にしながらトラブルで泣いた1985年を含め、4回の参戦全てでトラブルに見舞われ、チェッカーを受けてすらいなかった。この1990年は、WGPの序盤で怪我を負い、チャンピオン獲得の望みが絶たれたE・ローソンをペアに、優勝を目指して参戦していた。ライバルは、ホンダのW・ガードナーと、GPで力を発揮しはじめていたM・ドゥーハンのペアだった。

レースは、2周目から首位に立ったガードナー/ドゥーハン組と、スタートで出遅れながらも1時間後に2番手まで浮上した平/ローソン組の争いとなるが、13時を過ぎた頃、ガードナーが転倒して平組がトップに浮上する。しかし、ガードナーのマシンのダメージは少なく、ピットストップで破損したレバーなどを修復してすぐにコースに復帰。11番手から追い上げ、15時過ぎには2番手まで挽回する。しかも平/ローソン組より速いラップを刻み、レース終盤には逆転が可能な状況に持ち込まれた。ところがガードナーは15時27分、ガス欠でリタイアとなる。

その後は、平/ローソン組に敵はいなかった。最後までトップを守り、205周という新記録でヤマハにとって3度目、平にとっては初の勝利を獲得することとなった。なお、ヤマハファクトリーチームの永井康友/加藤信吾組、町井邦生/藤原儀彦組もコンスタントな走りで202周のラップを刻み4位、5位で入賞を果たしている。

1991
2位K・マギー/D・チャンドラー(YZF750)22位P・ゴダード/N・マッケンジー(YZF750) 54位藤原儀彦/永井康友(YZF750)
ヤマハファクトリーチームのマギー/チャンドラー組がガードナー/ドゥーハン組 (ホンダ)と一騎打ち。レース後半、トップに立っていたマギーが転倒。これで優勝は逃したが復帰して2位表彰台を獲得。
1992
2位K・マギー/N・マッケンジー(YZF750)11位藤原儀彦/永井康友(YZF750) DNFF・ピロバーノ/R・ホールデン(YZR750)
ヤマハファクトリーチームのマギー/マッケンジー組が、終盤にトップに迫りながら届かず2位表彰台。ガードナー/ビーティー組(ホンダ)が独走して優勝し、ガードナーは4回目の鈴鹿8耐制覇となった。
1993
8位高橋勝義/K・ロバーツJr. (YZF750)9位S・ジャイルス/吉川和多留(YZF750) 32位藤原儀彦/永井康友(YZF750)
「TT-F1」車両での最後の鈴鹿8耐。ヤマハ勢は序盤こそ藤原/永井組がトップ争いを演じたが、各チームともトラブルで後退。最高位は高橋/ロバーツJr.組の8位。なおこの大会でラッセル/スライトのペアでカワサキが初優勝を達成した。
1994
4位E・ローソン/永井康友(YZF750)DNF藤原儀彦/吉川和多留(YZF750)
スーパーバイクレギュレーションによる初の鈴鹿8耐。決勝グリッドを1周のタイムアタックで決める「スペシャルステージ」が採用された。レースは序盤、転倒車の炎上とオイルリークで赤旗中断。これに藤原が巻き込まれて転倒、その後吉川がTカーで出走するもリタイア。ローソン/永井組は序盤に転倒があったが、赤旗中断中に復帰して4位でチェッカーを受けた。
1995
4位藤原儀彦/吉川和多留(YZF750SP)5位永井康友/C・エドワーズ(YZF750SP)
藤原/吉川組は、吉川が体調を崩していたものの、トップと同一周回、新記録となる212周を走り4位を獲得。またWSBへの参戦中の永井とそのチームメイトであるエドワーズのペアが5位入賞。
1996
1位C・エドワーズ/芳賀紀行(YZF750)37位本間利彦/芳賀健輔(YZF750)DNF吉川和多留/藤原儀彦(YZF750)
エドワーズ/芳賀組が、ライバルを抑え、8耐新記録となる214周を走りきり、1990年以来、6年ぶり4度目の優勝をヤマハにもたらした。なお、8耐史上最年少ペアでの優勝でもあった。詳しく見る

エドワーズ/芳賀の史上最年少ペアが、ヤマハに4度目の栄冠をもたらす!

C・エドワーズ/芳賀紀行組、吉川和多留/藤原儀彦組、本間利彦/芳賀健輔組がファクトリーYZF750で出場。このなかで、特に注目を集めたのが、WSBで売り出し中のエドワーズと、同じく全日本のスーパーバイクで力をつけ始めていた芳賀紀行のコンビであった。この時、22歳と21歳であった彼らは、WSBのトップライダーであるA・スライトとGP500への参戦を開始した岡田忠之が組んだホンダのエースチームなど、8耐の強者に正面から勝負を挑む。

猛暑の中で行われた決勝は、スライト組が早々に脱落。混戦の序盤を制したのは青木拓磨/カール・フォガティ組(ホンダ)。そしてこのトップを猛然と追ったのがエドワーズ/芳賀組である。2台は抜きつ抜かれつの首位争奪戦を繰り広げたが、3時間50分経過時の103周目、フォガティの転倒により芳賀がトップに立つ。そこからは他を寄せ付けない圧巻のペースと安定感で2人は独走し、1995年の212周を2周も上回る214周の新記録で、ヤマハにとって6年ぶり4度目の優勝をもたらした。さらに、この優勝は鈴鹿8耐史上最年少ペアという記録となった。

一方、藤原/吉川組は序盤の転倒でリタイア。本間/芳賀健輔組は2度の転倒で順位を下げるが196周37位で完走した。

1997
4位S・ラッセル/T・コルサー(YZF750)8位吉川和多留/藤原儀彦(YZF750)10位J・デルタン/J・ルジア(YZF750)
ラッセル/コルサー組が2番手争いに食い込んだが、除々にタイヤの空気が抜けるスローパンクチャーで予定より早くピットインしタイムロス。終盤は梁/武石組(カワサキ)と激しい3位争いを繰り広げるもコンマ2秒差で表彰台を逃した。
1998
6位芳賀紀行/S・クラファー(YZF750)8位S・ラッセル/藤原儀彦(YZF750)DNF吉川和多留/芳賀健輔(YZF750)
ヤマハにとってアンラッキーな鈴鹿8耐だった。ファクトリーは、芳賀紀行/クラファー組、ラッセル/藤原組、吉川/芳賀健輔組の3台体制で、決勝は3台ともにトップ10から発進。しかし各車トラブルに見舞われ表彰台には届かなかった。
1999
4位芳賀紀行/R・ラコーニ(YZF-R7)10位吉川和多留/辻村猛(YZF-R7)14位J・ハッキン/藤原儀彦(YZF-R7)
YZF-R7が鈴鹿8耐にデビュー。ファクトリーは、芳賀/ラコーニ組、吉川/辻村組の2台体制で臨むが、スタート直後トップを走った芳賀組が序盤で順位を落とし4位、吉川組は転倒などがあり10位に終った。
2000
7位沼田憲保/生見友希雄(YZF-R7)16位辻村猛/S・クラファー(YZF-R7)18位吉川和多留/芳賀紀行(YZF-R7)
1988年のレイニー以来12年ぶり通算3度目のポールを芳賀が獲得。その吉川/芳賀組と、辻村/クラファー組がファクトリーYZF-R7で出場したが、吉川組は序盤で転倒、辻村組もトラブルで、上位チェッカーを逃した。なお、この年V・ロッシ(ホンダ)が鈴鹿8耐に初出場したがリタイアに終わっている。
2001
7位藤原儀彦/沼田憲保/宮崎敦(YZF-R7)20位吉川和多留/松戸直樹(YZF-R7)53位芳賀紀行/A・ゴバート(YZF-R7)
ヤマハファクトリーチームの芳賀/ゴバート組が序盤10番手から上位を狙うが、残り20分でトラブルが発生してリタイア。吉川/松戸組は序盤に転倒があり挽回するも20位。2回目の鈴鹿8耐出場となった当時ホンダのV・ロッシはC・エドワーズと組んで優勝を果たしている。
2002
4位吉川和多留/辻村猛(YZF-R7)5位藤原儀彦/嘉陽哲久(YZF-R7)9位時永真/佐藤泰彦(YZF-R17)
ヤマハファクトリーチームのライダーは、全日本のスーパーバイクに参戦していた吉川/辻村組。4番手から表彰台を狙うも届かず4位。YZF-R7はこの年で参戦を終え、2003年からR1へバトンタッチ。またこの年でヤマハはファクトリー活動を休止する。
2003
2位中冨伸一/吉川和多留(YZF-R1)6位斉藤光雄/深見貴広(YZF-R1)DNF藤原儀彦/嘉陽哲久(YZF-R1)
この年、YZF-R1が鈴鹿8耐にデビュー。全日本のエース中冨を擁するヤマハサポートチームが2位として、1996年以来となる表彰台を獲得。また残り約1時間で4位を走行していた嘉陽が3位を捉えながらも残り30分で転倒しリタイアとなった。
2004
8位D・チェカ/S・ジンバート/W・コステス(YZF-R1)13位H・サイガー/J・エリソン/I・ジャーマン(YZF-R1)14位中冨伸一/吉川和多留(YZF-R1)
世界耐久選手権のレギュラーチームであるGMT94がヤマハ最上位となる8位を獲得。13位には同じく世界耐久選手権に参戦するYARTが入った。なおこの年のGMT94は、世界耐久選手権のシリーズチャンピオンも獲得した。
2005
9位G・ジャバ二/I・ジャーマン/H・サイガー(YZF-R1)12位中冨伸一/吉川和多留(YZF-R1)50位藤原儀彦/大崎誠之(YZF-R1)
ヤマハ最上位は世界耐久選手権にレギュラー参戦するYARTの9位。ヤマハのサポートチームとして参戦した中冨/吉川組は12位となった。なお、この年は清成/宇川組が優勝したが、宇川が鈴鹿8耐の新記録となる5勝目をマークした。
2006
10位G・ジャバ二/I・ジャーマン/S・スカルナト(YZF-R1)DNF中須賀克行/中冨伸一(YZF-R1)DNF芳賀紀行/C・エドワーズ(YZF-R1)
WSBで活躍していた芳賀とMotoGPのヤマハファクトリーチームに所属していたエドワーズが、1996年の優勝以来10年ぶりにペアを組んだ「YAMAHA BLUE RACING」が出場。しかし他車と接触により4周でリタイア。中須賀/中冨組も154周でリタイアとなり、ヤマハトップは世界耐久選手権のレギュラーチームYARTの10位。
2007
9位阿部典史/J・スタファー(YZF-R1)DNF中須賀克行/大崎誠之(YZF-R1)
全日本で活躍する中須賀/大崎組、そしてMotoGP、WSBで活躍し全日本に戻ってきた阿部など、有力ライダーが揃ったが、中須賀組は21周目に転倒がありリタイア。阿部組は一時5番手を走行するも緊急ピットインで順位を落とし9位となった。
2008
4位中須賀克行/佐藤裕児(YZF-R1)11位I・ジャーマン/S・マーティン /S・プラター(YZF-R1)
全日本のトップライダーに成長した中須賀と若手の佐藤がコンビを組んだヤマハサポートチームが出場。快晴から、雷を伴う激しい雨が降るなど混乱した大会となった。この中で中須賀組が4位でフィニッシュ。これに続き世界耐久選手権のレギュラーチームYARTが11位を獲得した。
2009
4位 I・ジャーマン/S・マーティン/G・ジャバ二 (YZF-R1)
この年は、ヤマハのサポートチームは出場しなかったが、世界耐久選手権のレギュラーチームであるYARTが健闘して4位を獲得。さらにYARTはその後も活躍を続けて、初のシリーズチャンピオンに輝いている。
2010
16位 I・ジャーマン/S・マーティン/G・ジャバ二 (YZF-R1)
2009年に続き、ヤマハのサポートチームは出場しなかったが、世界耐久選手権のレギュラーチームYARTが16位を獲得。
2011
7位D・チェカ/K・フォーレイ/M・ラグリーブ(YZF-R1)DNFG・ジャバニ/I・ジャーマン/中須賀克行(YZF-R1)
世界耐久選手権のレギュラーチームYARTに全日本のエースライダーである中須賀が加わり、3月に発生した東日本大震災で、大きなダメージを負った日本へのメッセージとして「がんばろう日本」のステッカーをマシンに配して出場。決勝はマシントラブルにより55周でリタイアとなった。ヤマハ最上位は世界耐久選手権に参戦するGMT94の7位。
2012
3位D・チェカ/K・フォーレイ (YZF-R1)DNF中須賀克行/芳賀紀行/T・ヒル(YZF-R1)
YARTを母体に、全日本のエース中須賀と、ブリティッシュスーパーバイクで活躍する芳賀、ヒルが組んで参戦。2000年以来のポールポジションを中須賀が獲得し、レースも序盤トップを走行するも転倒リタイア。一方、世界耐久選手権に参戦するGMT94が3位とし、ヤマハに2003年以来の表彰台をもたらした。
2013
5位D・チェカ/K・フォーレイ/M・ラグリーブ(YZF-R1)8位中須賀克行/B・パークス/J・ウォーターズ(YZF-R1)
2012年に続きYARTを母体に、全日本の中須賀、パークス、ウォーターズが組んで参戦。中須賀が2年連続でポールポジションを獲得し迎えた決勝は、マシントラブルで8位。ヤマハ最上位は、世界耐久選手権のレギュラーチームGMT94の5位。
2014
4位中須賀克行/B・パークス/J・ブルックス(YZF-R1)7位D・チェカ/K・フォーレイ/M・ジネス(YZF-R1)10位T・ブライドウェル、W・マクスウェル、R・オルソン
表彰台には届かなかったものの、「MONSTER ENERGY YAMAHA with YSP」の4位を最高に、ヤマハ3チームがトップ10入りを果たした。なお、ここで7位としたGMT94は、2004年に続き2度目となる世界耐久選手権のシリーズチャンピオンを獲得した。
2015
1位中須賀克行/P・エスパルガロ/B・スミス(YZF-R1)6位D・チェカ/K・フォーレイ/M・ジネス(YZF-R1)21位時永真/藤原儀彦/J・デ・フリース(YZF-R1)
2002年以来となるファクトリーチーム「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」が復活。現役MotoGPライダーのエスパルガロ、スミス、そして全日本で3連覇中の中須賀が、この前年に発売された新型「YZF-R1」で、19年ぶり5回目の優勝を獲得した。詳しく見る

YAMAHA FACTORY RACING TEAMが、1996年以来ヤマハ通算5回目の優勝を獲得

創立60周年となった2015年、ヤマハは東京・秋葉原で、モータースポーツ活動計画発表会を行った。そこでは、レース活動の基本方針を「ブランディング」「技術のフィードバック」「普及活動」と位置づけ、その実現を目指し、全日本選手権でのファクトリー活動の再開、さらに鈴鹿8耐でも2002年以来となるファクトリー体制の「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」参戦などを発表した。一方、この前年にヤマハは、スーパースポーツのフラッグシップ「YZF-R1」を発売。ファクトリーチームは、優勝により「YZF-R1」のポテンシャルを全世界に知らしめるという使命もあった。このミッションを託したのが、全日本3連覇中の中須賀克行、現役MotoGPライダーのP・エスパルガロ、B・スミスだった。

エスパルガロが、2分6秒00でポールポジションを獲得し迎えた決勝は、スタートを務めた中須賀がエンジン始動に手間取り、20番手前後まで順位を落とす波乱の幕開けとなる。しかし14周目に3番手に浮上すると、ポジションをキープしたまま徹底した燃費走行で28周を走行し、スミスにマシンを託す。

序盤で、津田拓也(スズキ)、C・ストーナー(ホンダ)らのライバルが後退・リタイアする中、2番手のスミスは55周目にトップに浮上。続くエスパルガロもトップを快走するが、セーフティカー活動中の追い越しで30秒のストップ&ゴーペナルティが科せられる。しかし、総合力でまさるチームは、終盤にトップを不動のものとすると、6回のセーフティカーが入る荒れた展開の中で204周を走破。1996年以来、19年ぶり5度目の優勝を果たし、ミッションを完了させた。

2016
1位中須賀克行/P・エスパルガロ/A・ローズ(YZF-R1)4位B・パークス/藤田拓哉/野左根航汰(YZF-R1)14位D・チェカ/N・カネパ/L・マヒアス(YZF-R1)
復活から2年目を迎えた「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」の中須賀克行、ポル・エスパルガロ、アレックス・ローズが218周を走破し、1987-1988年以来28年ぶりとなる2連覇を達成。通算優勝回数を6に伸ばした。詳しく見る

前年、鈴鹿8耐では2002年以来となるファクトリー体制の「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」を復活し、19年のぶりの優勝を果たしたヤマハ。しかし2016年の8耐に向けたヤマハの姿勢は、あくまでもチャレンジャーという立場を崩さなかった。

掲げたスローガンは「最速の挑戦者たれ」。チームは2台体制とし、エースゼッケン「21」をつける「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」は、中須賀克行、ポル・エスパルガロ、アレックス・ローズ。そしてもう一台が、世界耐久選手権に参戦する「#7 YART Yamaha Official EWC Team」をヤマハがサポートし、ライダーも、レギュラーのブロック・パークスに加え、全日本ロードレース選手権に参戦する「YAMALUBE RACING TEAM」の野左根航汰と藤田拓哉を加えた体制とした。

体制だけでなく、挑戦者としての姿勢はマシン開発にも現れていた。2015年の終了後、チームは技術・運営面を含め150項目にもおよぶ課題を挙げ、さらなる進化・熟成に向けた開発を進めてきたからだ。

こうして迎えた本番では「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」が2年連続でポールポジションを獲得。第1走者の中須賀がトップで最初のスティントを終えると、エスパルガロ、ローズ、そしてピットワークを含め、完璧なルーティンを見せて218周を走破し、2015年に続き2年連続の優勝を獲得。これにより通算優勝回数を6に伸ばし、1987-1988年以来28年ぶりの連覇を達成した。また「YART Yamaha Official EWC Team」のパークス、野左根、藤田は、214周を走り、表彰台にあと一歩に迫る4位入賞を果たした。

2017
1位中須賀克行/A・ローズ/M・ファン・デル・マーク(YZF-R1)5位B・パークス/M・フリッツ/野左根航汰(YZF-R1)11位D・チェカ/N・カネパ/M・ディ・メリオ(YZF-R1)
「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」の中須賀、ローズ、ファン・デル・マークが216周を走破し、ヤマハにとって初の8耐3連覇を達成(通算7回目の優勝)。また「GMT94 Yamaha Official EWC Team」が、チームとして3回目、ヤマハとして4回目となる世界耐久選手権のタイトルを獲得した。詳しく見る

2017年、鈴鹿8耐・第40回目の節目となる記念すべき大会に、ヤマハは1984年のファクトリー参戦以来、2回目のビッグチャレンジに挑もうとしていた。

1度目は1989年に遡る。1987-88年の連覇を受けて狙った鈴鹿8耐「3連覇」だ。この年、ヤマハはW・レイニー/K・マギー、平忠彦/J・コシンスキー、M・ドーソン/町井邦生というファクトリー3台体制で臨んだが叶わなかった。

あれから28年、2015-16年の連覇を受け「3連覇」に挑んだのが、ここに至る道筋を作った「YAMAHA FACTORY RACING TEAM(YFRT)」であり、その大役を任されたのが中須賀克行、A・ローズ、M・ファン・デル・マークの3人である。そしてもう一つのファクトリーチームとして「YART Yamaha Official EWC Team(YRAT)」のB・パークス、M・フリッツ、野左根航汰もまた「3連覇」を睨みウィークを迎えていた。

一方、「GMT94 Yamaha Official EWC Team(GMT94)」のD・チェカ、M・ディ・メリオ、N・カネパは、ランキングトップにわずか1ポイント差の2位で、EWC最終戦でもある鈴鹿8耐に乗り込んだ。言うなればこの鈴鹿8耐は「3連覇」を成し遂げ「EWCチャンピオン」を獲得し、2015年以来、熟成を重ねたYZF-R1の「真価」を見せつける舞台だった。

ウィークは順調に進みYFRTが3年連続のポールポジションを獲得する。決勝は中須賀、ローズ、ファン・デル・マークとR1を繋ぎ、その第3スティントで競り合っていたMuSASHi RT HARC-PRO. Hondaの転倒もあり、この時点で大きなアドバンテージ築いた。その後も危なげない走りを披露したYFRTは、最終的に216周を走破しヤマハ初となる3連覇・通算7度目のチャンピオンを獲得した。

一方GMT94は、30秒のストップ&ゴーペナルティなどを乗り越え11位。2004年、2014年に続き3回目、ヤマハにとって通算4回目の世界チャンピオンに輝いた。さらにYRATは5位入賞でランキング3位と、3チームがそれぞれR1の真価を示した大会となった。

2018
1位中須賀克行/A・ローズ/M・ファン・デル・マーク(YZF-R1)6位D・チェカ/N・カネパ/M・ディ・メリオ(YZF-R1)DNFB・パークス/M・フリッツ/藤田拓哉(YZF-R1)
「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」から中須賀、ローズ、ファン・デル・マークが出場。怪我の中須賀を欠いた決勝は、1998年の発売以来、20周年を迎えたYZF-R1で199周を走破し、2017年に達成した鈴鹿8耐3連覇の記録を更新する4連覇、通算8回目の優勝を達成した。詳しく見る

「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」は、2017年の第40回大会で、ヤマハにとって未踏の3連覇という大きなミッションを達成し、鈴鹿8耐史にその名を刻みつけた。そして41回大会、2018年の鈴鹿8耐でヤマハは、新たなミッションを「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」と、3連覇を達成した中須賀克行、A・ローズ、M・ファン・デル・マークの3人に託した。そのミッションとは、1998年に誕生し、2018年に20周年を迎えた「YZF-R1」を4連覇で祝うというものだ。

「ツイスティロード最速」を銘打って登場した「YZF-R1」は、発売以来「速さ」と「強さ」を求めて進化を続け、2015年に第8世代に至った。「サーキットNo.1」へと大きく舵を切ったこのモデルは、鈴鹿8耐で3連覇を果たしたように、世界中のサーキットでその真価を存分に解き放ってきたが、20周年を機に世界的なレースである鈴鹿8耐での4連覇で、改めてその存在を世界に知らしめようとしたのだ。

マシンはこれまで踏襲してきたヤマハレーシングブルーを封印。初代モデルの赤白カラーリングに、当時の「YZF」「R1」ロゴなどを配した特別カラーを採用し戦いに臨んだ。

一方、ライバルも強力なメンバーが揃った。ヤマハの連勝を止めそれぞれが栄冠を勝ち取るための布陣だ。#33 Red Bull Honda with 日本郵便は、全日本のトップライダーの高橋巧とMotoGPライダーの中上貴晶らが起用され、#11 Kawasaki Team GREENには、SBKで3連覇中のJ・レイらが加わった。

そしてレースウィーク、チームは予期せぬアクシデントに見舞われた。チームの柱である中須賀が、土曜日のフリー走行中に転倒し肩を負傷したため、決勝は2人で戦うこととなったのだ。

決勝は、スタート直前に雨に見舞われる波乱の幕開けとなる。スタートライダーのファン・デル・マークはこれを冷静に受け止め、途中、タイヤ交換の緊急ピットインを無難にこなし、#11カワサキらとトップグループをキープしたまま1時間40分弱を走行しローズに交代。そのローズがスタートから約2時間が経過した頃にトップへ浮上した。その後も#11カワサキとのバトルが続いたが転倒で後退し、今度は#33ホンダとの戦いになるが、2人でライバルを引き離しトータル199周を走破してヤマハ新記録となる4連覇を達成した。

2019
2位中須賀克行/A・ローズ/M・ファン・デル・マーク(YZF-R1)6位B・パークス/M・フリッツ/N・カネパ(YZF-R1)
大会5連覇を目指し、「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」から中須賀、ローズ、ファン・デル・マークが、1985年の「ヤマハTECH21チーム」の復刻カラーを纏ったR1で出場。残り2分、2番手走行中にトップが転倒。これで暫定優勝となるも、その後の審議で結果が改訂され2位となり、5連覇にあと一歩届かなかった。
2020
中止
2021
中止
2022
7位K・ハニカ/M・フリッツ/N・カネパ(YZF-R1)
EWCにレギュラー参戦する「YAMALUBE YART YAMAHA EWC Official Team」が出場。予選を3番手とするも、決勝はスタートで遅れ1周目を22番。しかしセーフティーカーの介入などがあり序盤に3番手に挽回。終盤は2位争いを展開したが、残り1時間となったところで他車との接触よる転倒があり、7位でチェッカーとなった。
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